序論:地球規模の課題としての「人とクマの軋轢」
目的と構成の概説
近年、日本国内においてクマの市街地への出没や人身被害が過去に例を見ない規模で頻発し、深刻な社会問題となっている。この現象は日本特有のものではなく、北米、欧州、アジアの広範な地域で共通して見られる「人とクマの軋轢(Human-Bear Conflict, HBC)」という地球規模の課題の一環である。本報告書は、1980年頃から現在に至るまでの、日本および世界各国におけるクマによる被害の統計的分析、被害軽減策の成功・失敗事例の検証、そして日本への応用可能性の評価を目的とする。
報告書の構成は以下の通りである。まず第1部では、日本と主要国の被害状況を統計データに基づき比較分析し、世界的な傾向と地域ごとの特性を明らかにする。これにより、日本の状況を客観的に位置づけるための基礎を構築する。続く第2部では、北米と欧州で実践されてきた先進的な対策事例を深く掘り下げ、成功と失敗の要因を分析し、有効な対策手法を体系的に整理する。最後に第3部では、これらの国際的な教訓を踏まえ、日本の現状と課題を分析した上で、コスト、法制度、社会基盤の観点から実現可能性を評価し、日本が目指すべき持続可能な共存モデルに関する具体的な政策提言を行う。
専門家チームの視点
本報告書は、野生動物管理学、生態学、法学、社会経済学、リスクコミュニケーションの各分野の専門家からなる学際的チームの見解を統合したものである。単に科学的データを提示するだけでなく、政策決定者が直面する現実的な制約、すなわち予算の限界、専門人材の不足、そして多様な価値観を持つステークホルダー間の社会的合意形成の困難性を十分に考慮した、実行可能かつ効果的な提言を目指す。人とクマの軋轢は、単なる野生動物問題ではなく、人間社会のあり方を問う複合的な課題であるとの認識に立ち、科学的知見と社会実装の双方の視点から解決策を探求する。
第1部:世界のクマ被害と軋轢の動向(1980年~現在)
この部では、日本と主要国における被害状況を統計データに基づき比較分析し、世界的な傾向と地域ごとの特性を明らかにする。これにより、日本の状況を客観的に位置づけるための基礎を構築する。
1.1. 日本における被害状況の推移と現状分析
人身被害の長期トレンド
日本のクマによる人身被害は、1980年代から一貫して増加傾向にあり、近年その深刻度は急激に増している。環境省の統計によれば、1980年度から2020年度までの41年間で、ヒグマによる人身被害は死者20名・負傷者73名、ツキノワグマによるものは死者40名・負傷者2,277名に上る 1。
以下に、近年の人身被害者数の推移をまとめます。このデータは、被害の増加傾向を視覚的に示しています。
| 年度 | 人身被害者数(人) |
| 2006 | 145 |
| 2007 | 約50 |
| 2008 | 約50 |
| 2009 | 約90 |
| 2010 | 約150 |
| 2011 | 約30 |
| 2012 | 約110 |
| 2013 | 約40 |
| 2014 | 約100 |
| 2015 | 約30 |
| 2016 | 約110 |
| 2017 | 約70 |
| 2018 | 約60 |
| 2019 | 約140 |
| 2020 | 約60 |
| 2021 | 81 |
| 2022 | 75 |
| 2023 | 219 |
注:2006年度から2020年度までの数値は環境省の公表資料のグラフに基づき、2021年度以降は各報道機関等の速報値を基に作成。数値は死亡者と負傷者の合計。
被害の推移を時系列で見ると、1980年代および1990年代の負傷者数は年間平均でそれぞれ約11名、約21名と比較的低い水準で推移していた 2。しかし、2000年代に入ると状況は一変する。特に、ブナ科堅果類が凶作となりクマが人里へ大量に出没した2004年度(平成16年度)と2006年度(平成18年度)には、負傷者数がそれぞれ113名、145名と急増し、被害レベルが構造的に一段階上がったことが示唆される 1。
そして、2023年度(令和5年度)には、人身被害件数が198件、被害者数が219人(うち死亡6人)に達し、月別の詳細な統計が開始された2006年度以降で過去最多を記録した 4。この年の被害は9月以降に顕著に増加し、10月単月での被害件数は過去最悪であった 4。この背景には、東北地方を中心としたブナ科堅果類の凶作が、クマを食料を求めて人里へ押し出す強力な要因となった可能性が指摘されている 8。
被害の地理的集中と拡大
地理的に見ると、被害はクマの生息密度が高い地域に集中している。特にツキノワグマに関しては、東北地方での被害が際立っており、甲信地方および北陸地方がそれに続く 1。2023年度の被害は秋田県(62件)と岩手県(46件)に著しく集中しており、この2県だけで全国の被害件数の半数以上を占める状況となった 9。
さらに憂慮すべきは、被害発生場所の変化である。かつては山菜採りやキノコ採りなどで人が山林に入った際に発生するケースが多かったが、近年は被害の現場が人の生活圏そのものへとシフトしている 11。2023年度の9月から12月にかけて発生した人身被害のうち、全国で約3割から6割が「人家周辺」で発生した 6。特に被害が深刻であった秋田県では、9月から11月の3ヶ月間で山林以外の「人の生活圏」で発生した人身被害が40件以上に及んだ 8。これは、一部のクマが人里の環境に順応し、恒常的に出没する「アーバンベア」問題が深刻化していることを明確に示している。
農林業被害の動向
人身被害と並行して、農林業への被害も増加傾向にある。クマによる農作物被害額は、ニホンジカ(令和5年度被害額70億円)やイノシシ(同36億円)と比較すると、絶対額では全体の1~3%程度と小さい 12。しかし、その増加率は著しい。令和2年度の全国の鳥獣による農作物被害総額が約161億円であったのに対し 15、クマによる被害額は令和5年度に7億円に達し、前年度の3.6億円からほぼ倍増した 12。北海道では、デントコーンなどの飼料作物を中心に、2018年度には被害額が2億円を超えている 17。この農作物被害の増加は、クマが人里の食物に誘引されていることの証左であり、人身被害の増加と密接に連動する現象と捉えるべきである。
1.2. 国際比較:北米、欧州、ロシアの被害統計
日本の状況をより客観的に評価するため、クマが生息する他国の被害統計と比較分析する。
北米(アメリカ・カナダ)
北米では、特に大型のグリズリーベア(ヒグマの亜種)との軋轢が重要な管理課題となっている。
- アメリカ・アラスカ州: 1880年から2015年までの135年間にわたる調査では、682件の紛争が記録されている。そのうち88%はグリズリーベアによるものであった。紛争件数は、調査期間全体の年平均2.6件に対し、直近10年間では年平均7.6件へと明確な増加傾向を示している 18。この増加は、アラスカ州の人口増加と強い正の相関 ($r=0.93, P<0.001$) が確認されており、人間活動の拡大が直接的な要因であることが示唆される 18。
- カナダ・アルバータ州: 1960年から1998年の調査では、被害の地理的特徴が明確に示されている。深刻な人身被害42件のうち、グリズリーベアによる被害の多く(29件中21件)が国立公園内で発生しているのに対し、アメリカクロクマによる被害(13件中12件)は公園外で発生していた 19。これは、国立公園内の多数の観光客とそれに伴うゴミ問題がグリズリーを誘引し、一方で公園外の広範な森林地帯ではクロクマとの偶発的な遭遇が問題となっていることを示している。
欧州(スカンジナビア・ルーマニア等)
欧州では、保護政策の成功によるヒグマの個体数回復が、新たな軋轢を生んでいる。
- スカンジナビア(スウェーデン、ノルウェー等): 1977年から2016年にかけて、ヒグマの個体数が約500頭から約3300頭へと6倍以上に増加するのに伴い、人身被害も増加した 20。この期間に42件の事故(死者2名、負傷者42名)が記録されている。被害者の大半(33名)が狩猟中の成人男性であり、77%の事例で狩猟犬がクマを刺激していたことが特徴である 21。これは、特定の人間活動(狩猟)にリスクが集中していることを示している。
- ルーマニア: EU最大のヒグマ個体群(約6,400~7,200頭)を抱え、人とクマの軋轢が極めて深刻な社会問題となっている 22。2004年から2021年の間に240件以上の襲撃事例が報告され、26人が死亡、274人が重傷を負った 22。ブラショフ市のような都市部でも紛争が多発しており、森林伐採や都市の拡大がクマを人の生活圏へと追いやっている 24。
ロシア
広大な国土を持つロシアでは、統一された全国統計の整備が課題であるが、地域的な報告からは深刻な状況がうかがえる。
- シベリア・極東地域: これらの地域はヒグマの生息密度が高く、人との軋轢が頻繁に報告されている 25。特にシベリアでは、道路網の整備など人間による奥地へのアクセス(human encroachment)が拡大するにつれて、人身被害が増加する傾向が研究によって示されている 27。これは、人間とクマがマツの実などの同じ資源を求めて同じ場所に集まる機会が増えたためと分析されている。
これらの国際比較から、日本の被害状況、特に生活圏への侵入の深刻化は、世界的に見ても憂慮すべき段階にあることがわかる。以下の表は、各国の被害状況の概要を比較したものである。
| 国/地域 | 対象期間 | 主なクマ種 | 年間平均死者数(概算) | 年間平均負傷者数(概算) | 被害の主な特徴 |
| 日本 | 1980-2023 | ヒグマ、ツキノワグマ | 1.4 | 59.8 | 近年急増。被害場所が山林から市街地・人家周辺へシフト。 |
| アメリカ(アラスカ州) | 2006-2015 | グリズリー、クロクマ | 0.8 | 6.8 | グリズリーが主。人口増加に伴い紛争が増加。 |
| カナダ(アルバータ州) | 1960-1998 | グリズリー、クロクマ | <0.5 | 1.1 | 国立公園内でのグリズリー被害、公園外でのクロクマ被害。 |
| スカンジナビア | 1977-2016 | ヒグマ | 0.05 | 1.1 | 個体数増加に伴い被害増。被害者の多くが狩猟中の男性。 |
| ルーマニア | 2004-2021 | ヒグマ | 1.4 | 15.2 | EU最大の個体群。都市部でも被害が多発し、社会問題化。 |
出典: 1
1.3. 軋轢増加の根本原因:世界共通の要因と地域特性
世界各地で人とクマの軋轢が増加している背景には、共通する根本的な要因と、それぞれの地域が抱える固有の事情が存在する。
生態学的要因
- 自然食物の不足: クマの行動を左右する最も強力な要因の一つが、主要な食物資源の量である。特に日本のツキノワグマにとって、ブナやミズナラなどの堅果類(ドングリ)の豊凶は、その年の行動圏や人里への出没頻度を決定づける 1。凶作の年には、クマは代替食を求めて広範囲を移動し、結果として農地や人家周辺にまで現れる。この現象は、自然の食物連鎖の変動が直接的に人間社会に影響を及ぼす典型例であり、北米や欧州のヒグマにおいても、ベリー類やサケの不漁年などに同様の傾向が報告されている 28。
- 個体数回復と分布域の拡大: 20世紀を通じて多くの地域で狩猟圧や生息地の破壊により減少したクマの個体数は、その後の保護政策の成功により、北米、欧州、日本などで回復傾向にある 23。これは生物多様性保全の観点からは喜ばしい成果であるが、同時に、回復した個体群がかつての生息域や、これまでクマがいなかった新たな地域へと分布を拡大することで、人間との物理的な遭遇機会そのものを増加させている 33。
人間活動に起因する要因
- 誘引物(Attractants)の存在: 人とクマの軋轢に関する世界中の研究が一致して指摘する最大の要因は、人間が発生させる「誘引物」の存在である 31。管理が不十分な生ゴミ、収穫されずに放置された果樹(カキ、クリなど)、屋外に置かれたペットフード、農作物、養蜂箱などは、クマにとって極めて魅力的で容易に得られる高カロリーな食料源となる 33。一度これらの味を覚えたクマは人里への執着を強め、人への警戒心を失い(人慣れ)、さらには食物を求めて積極的に人に接近する「問題個体」へと変化するリスクが高まる。
- 里山の緩衝機能の低下: これは特に日本において顕著な課題である。かつて農山村では、薪炭林や採草地として日常的に人の手が入る「里山」が、奥山(クマの生息域)と人里(人間の生活圏)との間に広がる緩衝地帯(バッファーゾーン)として機能していた。しかし、戦後のエネルギー革命や農林業の衰退、そして中山間地域の過疎高齢化により、多くの里山が管理されなくなり、藪化した 7。これにより、クマは人の気配を感じることなく、容易に集落のすぐそばまで接近できるようになった。これは、人と野生動物の境界線が曖昧になったことを意味する。
- 人間活動の拡大と変化: 道路網の発達は、これまでアクセスが困難だった奥山への人間の侵入を容易にした 27。また、登山、キャンプ、釣りといったアウトドアレジャーの普及は、クマの生息域の中心部での人間活動を増加させ、不意の遭遇による事故のリスクを高めている。
これらの要因を総合的に考察すると、重要な結論が導き出される。クマの個体数増加は、軋轢が発生しやすくなる背景、すなわち「必要条件」ではあるが、それ自体が被害増加の直接的な原因、すなわち「十分条件」ではない。北米の成功事例が示すように、クマの個体数を維持、あるいは増加させながらも、人身被害を劇的に減少させることは可能である 38。このことから、問題の本質はクマの数そのものにあるのではなく、クマの個体数が増加するという状況下で、人間側の社会構造や土地利用のあり方(ゴミ管理の徹底、里山の整備、計画的な都市開発など)がどのように変化し、クマを人里に引き寄せる環境を作り出してしまっているか、という点にある。したがって、政策の焦点は、単なる個体数の調整(捕獲)に留まらず、人間社会側の環境管理をいかに徹底するかに置かれるべきである。
第2部:世界の被害軽減策:成功と失敗の教訓
この部では、世界各国で実践されている具体的な軋轢軽減策を、成功事例と失敗事例を通じて分析する。どのような対策が有効で、どのような状況で機能不全に陥るのかを明らかにすることで、日本が導入を検討すべき施策の方向性を示す。
2.1. 北米モデル:「Bear Smart」思想に基づく予防的管理
北米、特にカナダとアメリカでは、長年の経験と科学的研究に基づき、「問題が発生してから対応する(Reactive)」のではなく、「問題の発生を未然に防ぐ(Proactive)」という予防的管理の思想が対策の根幹をなしている。
成功事例①:イエローストーン国立公園の変革
イエローストーン国立公園は、人とクマの共存モデルを確立した世界的な成功事例である。1960年代まで、公園内のゴミ捨て場に集まるグリズリーベアを観光客が見物することが容認され、その結果、クマの「人慣れ」と「餌付け」が進行し、人身被害が年間平均で45件以上も発生する危機的な状況にあった 38。この状況を打開するため、公園管理当局は1970年代から方針を180度転換した。具体的には、
- 誘引物の徹底的な排除: 公園内の全てのゴミ捨て場を閉鎖し、全てのゴミ箱を特殊なラッチ付きの「耐クマ性ゴミ箱」に置き換えた。
- 厳格な規則の導入と執行: 観光客によるクマへの餌付けを全面的に禁止し、食料や調理器具の保管方法を厳格に定めた規則を導入。レンジャーによるパトロールを強化し、違反者には罰則を科した。
- 徹底した公衆教育: 来園者に対し、クマの生態や適切な行動について、パンフレット、看板、レンジャーによる解説などを通じて繰り返し情報提供を行った。
これらの包括的な対策の結果、公園への来園者数が年間300万人を超えるまでに激増したにもかかわらず、人身被害は年間平均1件未満にまで劇的に減少し、人とクマの共存における画期的な成功モデルとなった 38。
成功事例②:カナダ・ブリティッシュコロンビア州の「Bear Smart Community Program」
イエローストーンの教訓を、国立公園という特殊な環境だけでなく、一般の市町村にまで広げたのが、カナダ・ブリティッシュコロンビア州の「Bear Smart Community Program」である。これは、州政府が「クマに配慮した賢い地域社会」となるための6つの基準(①クマのハザード評価、②管理計画の策定、③誘引物管理条例の制定、④耐クマ性ゴミ管理システムの導入、⑤グリーンベルトなど土地利用計画の策定、⑥住民教育プログラムの実施)を定め、これらの基準を満たした自治体を公式に「Bear Smart Community」として認証する制度である 40。
このプログラムの成功事例として、キャッスルガー(Castlegar)市が挙げられる。同市はかつて州内で最もクマとの軋轢が多く、殺処分されるクマの数も最多レベルであった。しかし、プログラムに参加し、条例によってゴミ出しを収集日の朝に限定し、放置された果樹の管理を徹底するなどの対策を地域ぐるみで進めた結果、軋轢の件数は大幅に減少し、2021年に「Bear Smart」の認証を受けた 40。このプログラムの成功の鍵は、州が明確な目標と指針を示しつつ、具体的な対策の実行は各自治体の主体性に委ねるという、トップダウンとボトムアップを効果的に組み合わせた点にある。
これらの北米の成功事例に共通する核心は、問題の根本原因である「誘引物」を人間社会から徹底的に排除することにある。これは、「問題グマ」を排除するのではなく、「問題となる環境」を改善することに主眼を置くアプローチであり、「クマの行動を変えようとするのではなく、人間の行動と社会の仕組みを変える」という思想が貫かれている。
2.2. 欧州モデル:再導入と共存の模索
欧州では、一度は絶滅寸前まで追い込まれたヒグマの個体群を再導入・回復させる「リワイルディング(Rewilding)」の試みが各地で行われている。これは生物多様性の回復に貢献する一方で、人間との新たな軋轢を生み出しており、その管理手法が模索されている。
成功事例:LIFE DINALP BEARプロジェクト
スロベニア、クロアチア、イタリア、オーストリアの4カ国にまたがるディナル・アルプス山脈のヒグマ個体群は、国境を意識せずに移動する。このため、一国だけの対策では限界がある。そこでEUの支援を受けて開始されたのが「LIFE DINALP BEAR」プロジェクトである 41。このプロジェクトは、
- 国境を越えた共同モニタリング: 遺伝子解析などを用いて個体群全体の動態を把握し、科学的データに基づいた共通の管理計画を策定する。
- 多角的な被害対策: 家畜を保護するための高性能な電気柵や、伝統的な家畜護衛犬(Livestock Guardian Dogs)の導入を支援する。
- 交通死亡事故の削減: 道路や鉄道でのクマの死亡事故を減らすため、音響式の警告装置などを設置する。
- エコ・ツーリズムの推進: クマを地域の観光資源として活用し、保護と地域経済の両立を目指す。
このように、科学的調査、被害防除、地域振興を統合したアプローチは、広域に移動する大型哺乳類の管理における先進的なモデルとなっている 41。
失敗事例:イタリア・トレンティーノ州の再導入プロジェクト
一方で、リワイルディングの難しさを示す教訓的な事例が、イタリア北部のトレンティーノ州である。1999年、EUの支援のもと、ほぼ絶滅していたこの地域にスロベニアから10頭のヒグマが再導入された 42。生物学的にはこのプロジェクトは成功し、個体数は100頭近くまで回復した。しかし、その過程で社会的な側面が見過ごされた。
当初、地域住民の多くは再導入に好意的であったが、クマの数が増え、家畜被害や人里への出没が頻発するようになると、人々の不安と反発が強まっていった 42。行政の対応が後手に回り、被害への補償や危険個体の管理が十分に行われなかったことで、住民と行政、そして動物保護団体の間での対立が先鋭化。このような社会的な緊張が高まる中、2023年4月、ついにジョギング中の男性がクマに襲われて死亡するという最悪の事態が発生した 43。
この悲劇は、野生動物の保護や再導入を計画する際、個体群の生物学的な管理だけでなく、地域社会の理解と合意形成、リスクコミュニケーション、そして万一の事態に備えた迅速かつ効果的な危機管理体制の構築がいかに重要であるかを痛切に物語っている。
技術革新:ブルガリアの「Human-Bear Conflict Radar」
欧州では、軋轢管理に最新技術を活用する試みも始まっている。ブルガリアで試験運用されている「Human-Bear Conflict Radar」は、GPS首輪を装着したクマのリアルタイムの位置情報、過去の出没データ、地形や植生といった環境データを統合し、AIを用いてクマの次の行動と紛争発生リスクが高いエリアを予測する「デジタルツイン」技術である 45。これにより、対策チームは問題が発生しそうな地域に先回りしてパトロールを行ったり、住民に警告を発したりすることが可能になる。将来的には、地域住民がスマートフォンアプリなどを通じてリアルタイムのリスク情報を得られるようにすることも検討されており、テクノロジーを活用した予防的管理の新たな可能性を示している 45。
2.3. 対策手法のツールボックス化
世界中で実施されている多様な対策は、一つの「ツールボックス」として体系的に整理できる。どのツールを選択し、どう組み合わせるかは、各地域の生態学的、社会的、経済的状況によって異なる。
| 対策カテゴリー | 具体的施策 | 目的・効果 | 成功事例(国・地域) | 想定コスト | 日本での実施状況/課題 |
| 誘引物管理 | 耐クマ性ゴミ箱・コンテナの設置 | クマがゴミを漁ることを物理的に不可能にし、人里への誘引を根本から断つ。 | カナダ、アメリカ | 中~高 | 一部地域で導入。初期導入コストが高く、自治体の財政負担が課題。 |
| ゴミ出し日・時間の条例による規制 | クマが活動する夜間にゴミが放置される時間を最小化する。 | カナダ(BC州) | 低 | 実施は容易だが、住民の協力と合意形成が不可欠。 | |
| 放置果樹(カキ等)の除去・管理 | 集落周辺の主要な誘引物を除去する。 | カナダ、日本(一部) | 低~中 | 所有者の特定と協力が必要。ボランティア活動との連携が有効。 | |
| 物理的防除 | 電気柵の設置 | 農地、養蜂箱、家畜、集落全体を物理的に保護する。適切に設置・管理すれば効果は非常に高い。 | 欧州、北米、日本 | 中 | 設置・維持管理に費用と労力がかかる。自治体の補助金制度が普及。 |
| 家畜護衛犬(LGDs) | 羊などの家畜群をクマから守る。伝統的かつ効果的な手法。 | 欧州(LIFE DINALP) | 中 | 犬の訓練と管理に専門知識が必要。日本では馴染みが薄い。 | |
| 環境整備 | 緩衝帯(バッファーゾーン)の整備 | 人里と森林の境界付近の藪を刈り払い、見通しを良くすることで、クマが隠れにくく、人が接近を察知しやすくする。 | 日本(各地) | 低~中 | 定期的な維持管理が必要。地域住民の共同作業(共助)が鍵。 |
| 普及啓発・教育 | Bear Smartプログラム | 住民や事業者がクマとの共存に必要な知識と行動を学ぶ体系的な教育プログラム。 | カナダ、アメリカ | 低 | 専門知識を持つ指導者が必要。長期的な意識改革を目指す。 |
| SNS等によるリアルタイム情報発信 | クマの出没情報を迅速に地域住民に伝え、注意を喚起する。 | 日本(山梨県など) | 低 | 情報の正確性の担保と、住民の「情報疲れ」への配慮が必要。 | |
| 出没時対応 | ベアドッグによる追い払い | 特別に訓練された犬を使い、人里に出没したクマを山へ追い返す。クマに人里が危険な場所だと学習させる効果も。 | アメリカ、日本(長野県) | 中 | ハンドラーの育成に時間とコストがかかる。対応できる個体数に限り。 |
| 個体管理(捕獲・殺処分) | 人身への危険性が極めて高い個体や、被害を繰り返し起こす個体を最終手段として除去する。 | 全世界 | 低 | 社会的な反発を招く可能性があり、科学的根拠に基づく判断基準が不可欠。 | |
| 先進技術 | GPS首輪によるモニタリング | 特定の個体の行動を追跡し、出没パターンを分析。対策立案の基礎データとなる。 | 全世界 | 高 | 捕獲して装着する必要がある。バッテリー寿命やコストが課題。 |
| リスク予測レーダー(AI活用) | リアルタイムデータに基づき、将来の出没リスクを予測し、予防的対応を可能にする。 | 欧州(ブルガリア) | 高 | 高度な技術とデータ基盤が必要。開発・導入に多額の投資。 |
出典: 36
これらの事例分析から浮かび上がるのは、人とクマの軋轢管理における成功の鍵が「対策のパッケージ化」と「継続性」にあるという事実である。イエローストーンやカナダのBear Smartプログラムのような成功事例では、単一の対策に頼るのではなく、インフラ整備(耐クマ性ゴミ箱)、法制度(条例)、教育(住民意識)、そして専門家による執行体制という複数の要素が、一つのシステムとして統合的に機能している 38。一度電気柵を設置してもメンテナンスを怠れば効果は失われ、一度クマを追い払っても誘引物が残っていれば別の個体がすぐに現れる。したがって、効果的な軋轢管理とは、一過性のプロジェクトとしてではなく、地域の安全を守るための恒久的な行政サービスとして社会システムに組み込み、継続的に運用・評価・改善していく仕組みを構築することに他ならない。日本での対策を検討する際には、このシステム思考が不可欠である。
第3部:日本への応用可能性と戦略的提言
最終部では、海外の教訓を踏まえ、日本の現状に即した具体的な行動計画を提言する。コスト、法制度、社会基盤の観点から、その実現可能性を評価し、日本が構築すべき持続可能な共存モデルの姿を描き出す。
3.1. 日本におけるクマ対策の現状と体系的課題
日本のクマ対策は、各自治体や関係機関の懸命な努力にもかかわらず、いくつかの構造的な課題に直面しており、それが近年の被害急増への対応を困難にしている。
制度的課題
- 縦割り行政と対応の遅れ: クマの保護管理は、鳥獣保護管理法に基づき主に都道府県が担うが、実際の出没現場での初期対応は市町村、警察、そして地域の猟友会が中心となる。しかし、これらの組織間の連携は必ずしも円滑ではなく、情報共有の遅れや指揮系統の混乱が、迅速な意思決定を妨げるケースが少なくない 51。特に、住居集合地域等での銃器の使用は、鳥獣保護管理法で原則禁止されており、警察官職務執行法に基づく緊急的な対応に限られるなど、法的な制約が現場の判断を躊躇させる大きな要因となっている 53。
- 専門人材の不足と猟友会への過度な依存: 多くの市町村には、クマの生態や軋轢管理に関する専門知識を持つ常勤職員が配置されていない 55。そのため、科学的知見に基づいた計画的な対策よりも、場当たり的な対応に陥りがちである。結果として、危険を伴うクマの捕獲や追い払いの実務は、その多くがボランティアベースで活動する地域の猟友会に依存している 37。しかし、猟友会は会員の高齢化と後継者不足が全国的に深刻であり、このままでは地域の安全確保体制そのものが崩壊しかねない危機的状況にある 54。
- 不安定な財源: クマ対策にかかる費用は、単年度ごとの国の交付金や自治体の一般財源に頼ることが多い。これにより、耐クマ性ゴミ箱の計画的な導入や専門職員の雇用といった、長期的な視点が必要な投資が困難になっている 56。例えば、広大な面積を持つ北海道において、クマ出没時の体制構築に充てられた交付金が年間15万円、専門人材育成に200万円という事例は、対策予算が現場の実情に到底見合っていないことを示唆している 57。
技術的課題
- 錯誤捕獲問題: 近年、ニホンジカやイノシシの農業被害対策として、くくり罠による捕獲が全国的に推進されている。しかし、このシカ・イノシシ用の罠に、本来対象ではないツキノワグマが誤ってかかってしまう「錯誤捕獲」が多発している 58。罠にかかり興奮したクマは極めて危険であり、罠を仕掛けた猟友会員や住民が襲われる人身事故も発生している 62。錯誤捕獲は、人身事故の新たなリスクを生み出すと同時に、捕獲従事者の精神的負担を増大させ、シカ・イノシシ対策そのものへの意欲を削ぐ要因ともなっている 58。
社会的課題
- 住民の意識の多様性: クマへの対応をめぐっては、地域住民の間でも意見が分かれるが、特に都市部の住民と、日常的にクマの脅威に晒されている農山村部の住民との間には、意識に大きな隔たりが存在する 52。人身被害のリスクを軽視し、安易に殺処分に反対する意見が外部から寄せられることは、現場の対策担当者や地域住民を疲弊させ、建設的な合意形成を困難にしている 65。科学的根拠に基づかない感情的な対立は、効果的な対策の導入を遅らせる一因となっている。
3.2. 海外の成功事例の導入可能性と成功確率の評価
海外の成功事例を日本に導入するにあたっては、日本の社会・文化的背景に合わせた調整が必要である。ここでは、特に有望と考えられる2つの施策について、その導入可能性と成功確率を評価する。
施策①:「日本版 Bear Smart Community」の導入
- 内容: カナダ・ブリティッシュコロンビア州のモデルを参考に、国がガイドライン(誘引物管理の基準、住民教育の方法など)を策定し、都道府県が技術的・財政的支援を行う。その上で、市町村が主体となり、地域の実情に合わせて「誘引物管理条例」の制定、耐クマ性ゴミ箱の計画的導入、学校や地域での教育プログラムなどを総合的に推進する。
- 日本での実施状況: 長野県軽井沢町では、早くからゴミの戸別収集を廃止し、施錠可能なゴミステーションを設置するなど、この思想に近い先進的な取り組みを実践し、成果を上げている 46。これは、日本でも同様の取り組みが可能であることを示す好例である。
- 成功確率の評価(中~高):
- 促進要因: 日本のコミュニティは、自治会などを中心とした地域ぐるみの活動(例:集落での共同草刈り、清掃活動など)の素地があり、住民参加型の対策とは親和性が高い。軽井沢町の成功事例は、他の自治体にとって具体的な目標となり得る。
- 阻害要因: 最大のハードルは、住民や事業者への新たな負担に対する合意形成である。耐クマ性ゴミ箱の購入費用や、ゴミ出しルールの厳格化は、短期的に見れば負担増となるため、行政による丁寧な説明と、その負担を上回る安全という便益を明確に示す必要がある。また、財政力や職員の専門性に乏しい小規模な自治体が単独で推進するのは困難であり、都道府県による強力な支援が不可欠となる。
施策②:専門職「ワイルドライフ・マネージャー」の配置
- 内容: 各都道府県や、特に被害が深刻な市町村に、クマの生態、被害対策技術、データ分析、住民との合意形成(ファシリテーション)といった専門知識と技術を持つ常勤職員を「ワイルドライフ・マネージャー」として配置する。彼らは、科学的知見に基づき地域の対策計画を立案・実行し、行政、研究機関、警察、猟友会、住民の間の調整役を担う。
- 日本での実施状況: 一部の自治体で「鳥獣専門員」などの名称で非正規職員が配置される例はあるが、専門性と権限を持った常勤職としての制度は確立していない 55。一方で、日本には北海道大学の坪田敏男教授や東京農業大学の山﨑晃司教授など、世界レベルのクマ研究者がおり、彼らが所属する大学は専門家を育成するための教育基盤となり得る 67。
- 成功確率の評価(高、ただし初期投資が必要):
- 促進要因: 専門職員の存在は、これまでの場当たり的で経験則に頼った対応から、データに基づき効果を検証・改善していく「順応的管理(Adaptive Management)」への転換を可能にする。これにより、対策の効果と効率は飛躍的に向上し、猟友会の負担軽減や、行政の対応への住民の信頼向上にも繋がる。
- 阻害要因: 新たな常勤ポストを設けるための継続的な人件費予算の確保が最大の課題である。野生動物管理の効果はすぐには現れないため、短期的な成果を求める政治的環境下では、このような長期的投資への理解を得ることが難しい場合がある。首長の強いリーダーシップと政治的決断が不可欠となる。
3.3. 施策導入のコスト分析
対策の導入を検討する上で、コストの把握は不可欠である。ここでは、主要な対策にかかる費用を概算する。
物理的対策のコスト
- 耐クマ性ゴミ箱/コンテナ:
- 家庭用(約360L): 米国での価格は1台あたり$270~$360(日本円で約4万~5.5万円)程度 [71]。自治体が住民にレンタルする米国ノースカロライナ州アシュビル市の事例では、通常のゴミ処理手数料に月額$10(約1,500円)が上乗せされる 49。
- 業務用大型コンテナ(約3立方メートル): 1台あたり$4,550~$6,800以上(約70万~100万円以上)と高額になる 47。
- 電気柵:
- 小規模キット(キャンプサイト等): 米国では$300~$500(約4.5万~7.5万円)程度で市販されている 50。
- 大規模設置(農地・集落): 資材費だけで数十万~数百万円、設置工事費を含めるとさらに高額になる。日本の自治体では、資材購入費の補助制度が広く設けられており、例えば長野県小谷村では、個人で設置する場合は費用の1/2、団体で共同設置する場合は8/10~10/10を補助している 73。
人的・制度的対策のコスト
- 専門職員の人件費: 正規職員として1名雇用する場合、給与や社会保障費を含め、年間500万~800万円程度の予算が必要となる。
- 捕獲報奨金・担い手支援: 自治体によって様々だが、長野県小谷村ではツキノワグマ1頭あたり2万円の報奨金を支給している 73。また、担い手確保のため、秋田県では新人ハンターが散弾銃を購入する際の支援金を5万円から10万円に、ライフル銃は7万円から15万円に拡充するなどの措置を講じている 74。
これらの対策コストを検討する際、極めて重要な視点がある。それは、対策を講じるための「投資コスト」だけでなく、現状を放置した場合に発生し続ける「何もしないことのコスト(Cost of Inaction)」を定量的に可視化し、比較することである。耐クマ性ゴミ箱の導入には多額の初期投資が必要であり、財政担当者は難色を示すかもしれない。しかし、現状維持も決してゼロコストではない。毎年発生する農作物被害額(全国で7億円以上)12、人身被害に伴う医療費や逸失利益、対策のために出動する自治体職員や警察官の人件費、さらには数値化は難しいものの、観光業への深刻な風評被害や、住民が日常的に感じる恐怖や精神的ストレスといった社会的コストも存在する。政策決定の際には、「初期投資X億円を投じて対策を講じることで、今後10年間で削減が見込まれる被害総額や社会的コストY億円」という費用便益分析のフレームワークを提示することが、予算獲得と社会全体の合意形成を促進する上で不可欠である。
3.4. 提言:日本が構築すべき持続可能な共存モデル
以上の分析に基づき、日本が目指すべき人とクマの持続可能な共存モデルを構築するため、短・中・長期の視点から以下の戦略的施策を提言する。
短期的施策(緊急対応)
- 「指定管理鳥獣」制度の戦略的活用: 2024年に国がクマ類(四国の個体群を除く)を鳥獣保護管理法上の「指定管理鳥獣」に指定したことを受け、都道府県はこれに伴う国の財政支援(指定管理鳥獣対策事業費)を最大限に活用し、①科学的モニタリングに基づく地域個体群ごとの捕獲目標の設定、②人里周辺への出没を抑制するための集中的な捕獲、③電気柵設置や緩衝帯整備といった被害防除対策を、三位一体で緊急に強化するべきである 53。
- 錯誤捕獲防止策の徹底: クマの錯誤捕獲が人身事故の重大なリスクとなっている現状を踏まえ、シカ・イノシシ用のくくり罠に対する規制を強化する。具体的には、島根県で効果が示されているように、輪が完全に締まらないようにする「締め付け防止金具」を、ワイヤーの先端から12cmの位置に装着することを義務化し、その導入を補助金事業等で強力に推進する 62。
中期的施策(制度改革とインフラ整備)
- 「日本版 Bear Smart Community」認証制度の創設: 国(環境省・農林水産省)が共同で、カナダの事例を参考にした認証制度のガイドラインを策定する。被害が深刻な地域からモデル自治体を複数選定し、専門家の派遣や財政支援を集中的に行う。認証を取得した自治体には、特別な交付金を配分するなど、他の自治体の参加を促すインセンティブを設計する。
- 鳥獣保護管理法の改正と運用の見直し: 住居集合地域等における緊急時の対応の遅れを解消するため、現行の「緊急銃猟」制度の要件を緩和・明確化し、人の生命・身体への危険が予測される段階で、市町村長の判断で迅速に捕獲(銃器使用を含む)が実施できるよう、法改正を検討する 53。同時に、麻酔銃の使用に関する全国的な技術指針を作成し、各都道府県での人材育成と体制整備を支援する 59。
- 広域連携協議会の設置: 西中国地方の3県によるツキノワグマ保護管理対策協議会の事例 55 に倣い、県境を越えて移動するクマの個体群を一つの管理単位として捉え、東北、北陸、甲信越などのブロック単位で広域連携協議会を法的に位置づける。これにより、科学的データの共有、対策方針の調整、専門人材の共同育成などを効率的に進める。
長期的施策(人材育成と社会基盤の構築)
- 専門職「野生鳥獣管理監(仮称)」の国家資格化と配置促進: 大学や専門機関と連携し、野生動物の生態学、被害対策技術、データ分析、合意形成手法などを網羅した専門人材の育成カリキュラムを構築し、国家資格制度を創設する。国は、この資格を持つ専門家を雇用する都道府県や市町村に対し、人件費を補助することで、全国的な配置を促進する。将来的には、特定鳥獣管理計画を策定する都道府県への配置を義務化することも視野に入れる。
- 対策予算の安定化と多様化: 単年度の交付金制度に加え、複数年度にわたる計画的な投資を可能にするための基金制度の創設を検討する。また、企業のCSR活動やクラウドファンディング、ふるさと納税などを活用し、民間資金を軋轢対策に導入する仕組みを構築する。
- 国民的合意形成の促進と科学リテラシーの向上: 軋轢の根本原因やクマの生態、対策の科学的根拠について、国と専門家が連携し、メディアや教育機関を通じて継続的かつ正確な情報発信を行う。これにより、都市部と農山村部の意識のギャップを埋め、感情論に陥らない建設的な国民的議論を喚起し、社会全体で対策を支える文化を醸成する。
結論
日本で深刻化する人とクマの軋轢は、単なる野生動物の「問題行動」ではなく、過疎高齢化による里山の荒廃、変化する土地利用、行政の縦割り構造といった、日本社会が抱える複合的かつ構造的な課題が、クマという生き物を通して顕在化したものである。したがって、その解決は、対症療法的な捕獲強化のみでは決して成し得ない。
北米や欧州の先進事例が明確に示すように、真に持続可能な共存への道は、科学的知見を基盤とし、地域社会が主体となって「人間の行動と環境を変える」予防的管理を徹底することにある。耐クマ性ゴミ箱の普及や電気柵の設置といった物理的な対策と、条例制定や専門職員の配置といった制度的な対策、そして住民一人ひとりの意識を変える教育・啓発活動が、一つのパッケージとして、長期的かつ継続的に実行されて初めて効果を発揮する。
本報告書で提示した提言は、そのための具体的な道筋である。これらの施策を実行するには、相応の初期投資と社会的な合意形成という高いハードルが伴う。しかし、現状を放置した場合のコスト、すなわち失われる人命、経済的損失、そして地域社会の疲弊は、その投資を遥かに上回るものとなるであろう。今こそ、国、自治体、専門家、そして国民一人ひとりがこの課題に正面から向き合い、人とクマが共に生きられる未来の社会基盤を構築するための、 реши的な一歩を踏み出す時である。


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