香害問題の網羅的調査と解説

AI

香害(Kogai)に関する包括的調査報告書:

その医学的知見、化学的要因、および社会的影響の分析


I. 香害(Kogai)の定義と医学的背景

本セクションでは、「香害」という言葉の社会的な定義から始め、それが医学的にどのような状態(特に化学物質過敏症:MCS)と関連付けられているか、そしてMCSが公衆衛生の文脈でどのように認識されてきたかを、歴史的経緯と共に解明する。

1.1 「香害」:社会問題としての台頭

「香害」とは、医学的な診断名ではなく、社会的な文脈で生まれた用語である。具体的には、芳香剤や柔軟剤、合成洗剤などに含まれる化学物質が原因となり、アレルギー症状や頭痛、吐き気などの体調不良を引き起こす現象を指す 。   

この問題が社会的に可視化された背景には、活発な市民運動の存在がある。2010年代後半以降、日本消費者連盟や化学物質支援センターを含む7つの市民団体が、この問題の深刻さを訴えるために院内集会を開催し、消費者庁、厚生労働省、文部科学省、経済産業省の4省庁に対して具体的な対策を求める申し入れを行っている 。   

被害の実態としては、日本消費者連盟が実施した「香害110番」において、わずか2日間で65件の電話相談が寄せられたことが報告されている 。この事実は、公にはなっていないものの、水面下で広範な健康被害が潜在している可能性を示唆している。   

特筆すべきは、「香害(こうがい)」という呼称の戦略性である。この用語は、日本の高度経済成長期に深刻な社会問題となった「公害(こうがい)」を意図的に想起させる。これは、市民団体がこの問題を、単なる「個人の香りの好み」や「エチケット」の問題  ではなく、企業活動によって不特定多数の市民に健康被害をもたらす「社会問題」であり、規制と企業の責任が問われるべき「公害」である  と位置づけようとする明確な意図の表れである。   

1.2 関連する医学的病態:化学物質過敏症(MCS)

「香害」によって引き起こされる健康被害は、医学的には「化学物質過敏症(Multiple Chemical Sensitivity: MCS)」の一種、あるいはその発症の引き金となるものとして言及されることが多い 。   

MCSの概念は、1950年代に米国の小児科教授であったRandolphが「環境中の化学物質に適応できなくなった個人に生じる新たな過敏状態」という病態を提唱したことに始まる 。その後、1987年にCullenが「過去に一度の大量な化学物質曝露、あるいは長期にわたる慢性的な再曝露」によって引き起こされる不快な臨床症状群を「多種化学物質過敏症(MCS)」と命名し、この概念が広く用いられるようになった 。   

日本においては、1980年代半ばに北里研究所病院の石川哲医師が、慢性有機リン系殺虫剤中毒の後遺症患者の一部が、建物の消毒などに用いられる極めて微量の同系殺虫剤に反応し、多様な身体的訴え(いわゆる「不定愁訴」)を呈することに気づいた 。これを機に米国との共同研究が進められ、MCSの医学的知見が日本に導入され、広く知られるようになった 。   

しかし、MCSの医学的地位は未だ確立されているとは言い難い。公式な医学的知見としては、「化学物質過敏症の病態は未解明な点が多く、症状や原因、安全な化学物質の濃度等は一般的に確立されておらず、関係者の間でも見解に大きな相違がある」とされている 。   

この「病態は未解明である」という医学界の公式見解と、「現実に深刻な被害が存在する」という患者の訴え  との間には、巨大なギャップが存在する。このギャップこそが、「香害」問題を巡る対立の根源である。MCSの病態が「未確立」であるという事実は、産業界や一部の行政機関にとって、規制強化や製品の安全性見直しを遅らせるための「科学的な盾」として機能する一方、被害者にとっては医療的・法的救済の遅れを意味している。   

1.3 シックハウス症候群(SBS)との比較

化学物質による健康被害という点において、MCSはしばしば「シックハウス症候群(Sick House Syndrome: SBS)」と関連付けて議論される。SBSは、1970年代後半から1980年代にかけて、欧米において省エネルギー対策としての建物の高気密化と、それに伴う換気不足による室内空気汚染が原因とされ、社会問題化した 。   

日本における厚生労働省の当初の診断基準では、SBSは「建築物の室内空気汚染因子による健康障害」と定義され、「①健康障害発生の確認、②建築物と症状の相関性の確認、③室内空気汚染の確認」の3項目を満たすことが求められた 。後に「住環境による健康障害」と改訂されている 。   

SBSの歴史は、香害問題を考える上で重要な先例となる。SBSは、「建物」という明確かつ固定された汚染源と、「室内空気汚染」という測定可能な要因が存在した。そのため、診断基準の策定や、建築基準法改正による換気設備の義務化といった、規制的な行政対応が可能であった。

対照的に、「香害」は、汚染源が「柔軟剤を使用した衣類をまとった他者」という、移動可能かつ不特定なものである 。曝露は家庭内のような閉鎖系ではなく、電車内、職場、学校といった公共空間(開放系)で発生する。この根本的な違いにより、SBSには有効であった「汚染源の特定と除去(または換気による希釈)」というアプローチが、「香害」には適用困難である。このことが、行政の対応を「啓発ポスター」といった間接的かつ弱い介入に留まらせている  大きな要因となっている。   

1.4 日本におけるMCSの認定と現状

長期間、MCS患者は医師の理解を得られず、「精神疾患」として扱われることも少なくなかった 。しかし、1990年代のシックハウス症候群の多発を受け、患者や市民団体の長年の訴えの結果、厚生労働省は2009年10月1日、「化学物質過敏症」を正式な病名として登録し、中毒の項に分類した 。   

この「病名登録」は、患者が公的に「病気」として認められたという点で、行政的な大きな前進であった。しかし、病名登録と、実際の「治療・救済」の間には依然として大きな隔たりが存在する。

現状、MCSには「治療法が確立していない」 。そのため、患者やその家族を支援する活動は、公的な医療制度よりも、NPOによる「自助・共助」に大きく依存している。例えば、認定NPO法人「化学物質過敏症支援センター(CSSC)」 は、2001年の設立以来、相談窓口の設置、ブックレットの出版、会報の発行といった支援活動を継続しているが、その運営は公的な助成金などに頼ることなく、会員からの会費や寄付のみによって賄われている 。これは、日本のMCS対策が、制度的な枠組みの中で十分に機能しておらず、その負担が患者とNPOに転嫁されているという構造的な問題を示している。   

II. 主な原因物質と製品

本セクションでは、香害の主たる発生源として指摘される製品群を特定し、その化学的・技術的な特徴、特に「マイクロカプセル」技術の役割と、それに伴う新たな毒性学的懸念を分析する。

2.1 問題の核心:柔軟仕上げ剤と合成洗剤

香害の被害者や支援団体は、行政やメーカーに対し、一貫して「柔軟仕上げ剤」や「香り付き合成洗剤」の販売中止、または開発中止を求めている 。この問題の焦点が特定の製品カテゴリーに集中していることは、国民生活センターが「柔軟仕上げ剤のにおいに関する情報提供」と題する調査報告を公表している  ことからも明らかである。   

香害問題が、他の香料製品(香水や室内芳香剤など)と比べ、特に「柔軟剤問題」として集中的に語られる背景には、その製品特性がある。香水が「皮膚に塗布」され、芳香剤が「空間に拡散」されるのに対し、柔軟剤の主目的は「衣類というテキスタイル(繊維)に、化学物質を意図的に残留させる」ことにある。

この「残留性」という技術的設計こそが、問題の核心である。衣類が「持続的かつ移動可能な化学物質の曝露源」へと変化し、使用者の「個人の選択」という範疇を超え、周囲の第三者に対する「非自発的曝露」を引き起こす。この点が、他の香料製品とは根本的に異なる点である。

2.2 マイクロカプセルの技術と化学的組成

近年の柔軟剤や洗剤の「香りの持続性」を技術的に支えているのが、「マイクロカプセル」技術である。これは、香料の原液を微細なカプセルに閉じ込め、製品に配合する技術である。衣類に付着した後、摩擦などの刺激によってカプセルが弾け、香りが放出される仕組みになっている 。   

国民生活センターの報告においても、このマイクロカプセルが衣類に蓄積することが、「香害」の原因である可能性が指摘されている 。   

これらのカプセルの壁材として使用される化学物質には、ポリウレタン樹脂、ポリアミド樹脂、メラミン樹脂、尿素樹脂といった「合成高分子材料」が含まれる 。   

このマイクロカプセル技術の導入は、香料業界における一種の「技術的エスカレーション」であり、これが香害問題の質的な転換点となった可能性が高い。従来の「揮発性有機化合物(VOC)」としての香料(ガス状)の吸入リスクに加えて、「カプセル壁材(プラスチック粒子)」と「高濃度の香料原液」を同時に吸入するという、複合的かつ未評価の健康リスクを生み出している 。   

2.3 香りの残存メカニズム:「移香」と蓄積の問題

マイクロカプセルの使用は、香りの「残留性」だけでなく、「移香(いこう)」という新たな現象を引き起こしている。これは、柔軟剤を使用した衣類から放出されたカプセルや香料成分が、他者の衣類、髪、皮膚、さらには室内の物品(電車の座席など )に付着し、そこから再び香りを放つ現象である。   

市民団体「CAN(Canary Network)」は、「移香実験」の報告書を作成し、業界団体である日本石鹸洗剤工業会(JSDA)に提出した 。しかし、JSDAは「『移香』を認識していない」と回答している 。   

業界による「移香」の否認は、科学的な見解の相違というよりも、法的・社会的な責任を回避するための戦略的な防衛線であると解釈できる。「移香」は、(電車)や(車)で報告される被害者の「実体験」そのものである。もしJSDAが「移香」を(科学的に)認めれば、それは自社製品が個人の管理領域を超えて他者に非自発的な曝露を与えていること、すなわち製品の安全性設計の根本的な欠陥を認めることに直結する。したがって、JSDAは「移香」を(たとえ科学的に存在しても)「認識していない」と回答せざるを得ない立場にあると考えられる。   

さらに、市民団体はJSDAに対し、「衣類は1回着たら捨てるものではない。マイクロカプセルの洗濯による残存率はどれ位か?」と、衣類への「蓄積性」に関する問いを発している 。これもまた、業界の安全性評価が見落としている可能性のある重要な論点である。   

2.4 成分表示の規制上の課題

消費者が香害の原因となる製品を回避しようとする際、現在の表示規制が大きな障壁となっている。

第一に、香料が1%未満の洗剤には「香料」と表示する義務がない 。この規制上の抜け穴により、消費者が「香害にならない製品」と誤解して抗菌消臭洗剤などを購入・使用し、結果として「香害被害を広めている実態がある」と指摘されている 。   

第二に、製品ラベルからは、香害の主因とされる「マイクロカプセル配合製品」かどうかを消費者が判別することはできない 。   

市民団体は、家庭用品品質表示法などによる「全成分情報開示」を求めている。これに対し、消費者庁は「現行の自主表示で品質の識別が十分可能である」と回答した経緯がある 。しかし、市民団体側は「消費者が必要としている安全性に関する情報が圧倒的に不足している」と強く反論している 。   

この対立は、規制の目的の根本的なズレを露呈している。行政(消費者庁)の目的は「品質の識別」に置かれているが、患者が必要としているのは「ハザード(危険)の識別」である。MCSは「極めて微量」の化学物質に反応する病態  であり、「1%未満」なら表示不要という閾値  は、MCS患者にとっては安全性の指標として全く意味をなさない。現行の表示規制は「平均的な健常者」の用量反応を前提としており、最も脆弱な集団(MCS患者)の安全を制度的に排除する結果となっている。   

III. 健康への影響と報告される症状

本セクションでは、香害やMCSに関連して報告される具体的な健康症状を概観し、それが患者の社会生活にどのような困難をもたらしているか、そして医療現場でなぜ十分な対応がなされていないのかを分析する。

3.1 報告される多様な症状

香害やMCSに関連して報告される症状は極めて多様であり、しばしば「非特異的」と形容される。具体的な症状としては、頭痛、吐き気 、咳 、アレルギー症状 、粘膜刺激(皮膚・眼の刺激 )などが挙げられる。   

医学界では、これらの多様な身体的訴えが特定の診断に結びつかない場合、「不定愁訴」と呼称されてきた 。症状の「非特異性」こそが、MCS/香害患者が医療や社会から受け入れられる上での最大の障壁となっている。頭痛や吐き気といった症状は、客観的な測定が困難な「主観的」な訴えと見なされやすく、が示すように「精神疾患」として誤診されてきた歴史的な原因となっている。   

この問題は「証拠の非対称性」とも言える。患者が体験する「症状」は主観的で非特異的である一方、曝露源である「マイクロカプセル」 や「化学物質」 は客観的かつ測定可能な存在である。近年の患者側の運動は、この「主観的な症状」の訴えに留まらず、「客観的な曝露の証拠(の写真やの移香実験など)」を提示する方向へと、戦略的に移行しつつある。   

3.2 患者が直面する社会的孤立と生活上の困難

報告される症状は、患者の社会生活に深刻な支障をきたしている。市民団体への相談事例  には、その困難な実態が具体的に記録されている。   

  • 電車の座席に付着した化学物質(移香)を避けるため、移動の際には常にアルミシートを敷かなければならない。
  • 飛行機の機内サービスで提供される「善意」の香料付きおしぼりによって、体調を崩してしまう。
  • 元音楽教師の女性が、生徒や同僚の使用する柔軟剤の化学物質が原因で、退職に追い込まれた。

これらの事例が示すのは、単なる「健康被害」ではなく、社会の無理解と環境の敵対性による「社会的排除」である。アルミシートの使用  は、化学物質から身を守るための物理的な防衛策であると同時に、社会的な孤立の象徴でもある。教師の退職  は、労働権という基本的な権利の喪失である。「善意のサービス」 が害悪となるという価値観の逆転は、健常者向けに設計された社会の「常識」が、MCS患者にとっては「毒」となり得ることを示している。   

この問題は、医学的な問題であると同時に、環境によって規定される「障害(Disability)」の問題であり、社会的な「合理的配慮」が著しく欠如している問題でもある。さらに、患者を取り巻く家族などが病気をよく理解できず、患者が家庭内でさえ孤立するケースも少なくない 。   

3.3 確立された治療法の不在

香害やMCSの患者が直面する困難は、医療現場の対応の限界によってさらに深刻化している。前述の通り、MCSは「治療法が確立していない」のが現状である 。   

そのため、医療機関で患者に提示できる、最も有効かつ唯一の「対処法」は、「原因となる化学物質を避けること」である 。   

しかし、この「回避」という「医学的処方箋」は、事実上、患者に「社会からの離脱」を宣告するに等しい。が示すように、原因物質(柔軟剤、マイクロカプセル)が空気中に飛散し、公共交通機関、職場、学校、家庭菜園のハーブ  にまで偏在する現代社会において、「原因物質の完全な回避」は現実的に不可能に近い。   

この実行不可能な「回避」という処方箋に従おうとすれば、その論理的な帰結は、が示す「孤立」や「退職」といった、社会生活の放棄以外にない。結果として、「回避」という医療的アドバイスは、それ自体が患者の社会的な孤立を助長し、正当化するイデオロギーとして機能してしまっている側面がある。   

IV. 科学的エビデンスと毒性学的懸念

本セクションでは、MCS/香害の病態解明に関する医学界の現状と、市民団体や一部の学術研究者が提示する毒性学的な懸念(特にマイクロカプセルの吸入リスク)との間にある「認識ギャップ」を、科学的エビデンスに基づき分析する。

4.1 医学界における病態解明の現状

MCSの病態は「未解明」であり、「症状や原因は一般的に確立されていない」  というのが、現時点での医学界の公式見解である。この、被害者の訴えと医学的知見との間の「認識ギャップ」そのものが、問題の解決を困難にしており、学術誌においてもこのギャップが問題として取り上げられている 。   

こうした中、一部の学術研究者は、従来の医学的アプローチに疑問を呈し始めている。2023年にJ-STAGEで公開された論文には、「香害という公害を考える」といった、問題を公害・環境問題として捉え直そうとする議論や、「水俣病に学ぶ福島甲状腺がんの因果関係。19世紀の医学が公害問題の解決を遅らせる」といった、既存の医学的因果関係の証明手法を批判する議論が提示されている 。   

ここで「水俣病」が参照されている点  は、極めて重大な意味を持つ。水俣病は、企業(チッソ)と行政(国・県)が、化学物質と症状との「科学的な因果関係の不確実性」を盾に、被害を長期間にわたって否認し、対策を遅らせた、日本の公害史における最大の汚点である。   

の筆者が「香害」と「水俣病」を関連付けて論じているのは、「香害」問題において、業界(JSDA)と行政が、MCSの「病態未解明」 を理由に対策を遅らせている現在の構図が、かつての水俣病の歴史(原因物質と症状の因果関係が医学的に「未証明」であるとして対策が遅れた)と酷似している、という痛烈な告発である。これは、問題を医学的な病態解明の議論から、公衆衛生正義(Public Health Justice)の議論へと転換させようとする試みである。   

4.2 マイクロカプセルの環境・安全保障上の懸念

香害の原因として指摘されるマイクロカプセルは、健康被害だけでなく、環境汚染の観点からも重大な懸念が指摘されている。

市民団体からの指摘を受け、環境省は「壁材がプラスチック製のマイクロカプセルはマイクロプラスチックである」と公式に認めている 。   

この認定に基づき、市民団体は、柔軟剤などへのマイクロカプセルの配合が、「改正海岸漂着物処理推進法」の第十一条の二(マイクロプラスチックの排出抑制の努力義務)に違反する可能性があると指摘している 。   

しかし、環境省も経済産業省も、同規定が「努力義務規定」であることを理由に、業界に対する具体的な指導を行っていない 。   

ここには、明確な「規制のパラドックス」と「省庁間のサイロ化」が見られる。環境省(MOE)は、製品の構成要素(カプセル)が環境汚染物質(マイクロプラスチック)であると認定している 。しかし、それが「消費者製品」(経済産業省・消費者庁の管轄)でもあるため、環境法(努力義務)の実行が妨げられている。業界は、環境規制(MOE)と消費者製品規制(METI/CAA)の「狭間」を巧みに利用し、環境汚染物質(マイクロプラスチック)を「消費者製品」として販売し続けている状況にある。   

4.3 毒性学的な論点:吸入暴露の危険性

香害問題における科学的な論点の中で、最も重大かつ緊急性の高いものが、「吸入暴露」の危険性である。市民団体がJSDAに送付した質問状  には、高度な毒性学的知見に基づく、以下の重要な指摘が含まれている。   

  1. SDS(安全データシート)の欠陥: 香料などの化学物質の安全性データシート(SDS)は、経口摂取(口からの摂取)に対する毒性データは記載されていても、「吸入」に対する毒性データが「データ無し」となっているものが多い 。   
  2. 曝露経路の致命的な違い: 毒性学の専門書によれば、経口摂取された毒物の90%以上は、肝臓で代謝(解毒)される「初回通過代謝」を受ける。しかし、「肺から入ったもの(吸入)は肝臓を通らず直接体内を巡り」、その吸収率も経口摂取より遥かに高い(約85%に達する)。   
  3. 粒子径と体内動態: マイクロカプセルには、PM2.5サイズのものも含まれると推測される。これらの脂溶性の微粒子は、肺から容易に血液に侵入し、通常は有害物質の侵入を防ぐ「血液脳関門」や「血液胎盤関門」、「血液精巣関門」を通過する懸念がある 。   

これらの指摘  は、柔軟剤の安全性の評価パラダイムそのものが間違っているという、根本的な告発である。業界(およびそれを追認する規制当局)は、「経口摂取」や「皮膚接触」を前提とした従来の安全性試験(SDS)に依存している可能性が高い。しかし、マイクロカプセル技術の登場により、現実の主要な曝露経路は、エアロゾル化したカプセルの「吸入」へと変化している。   

が指摘する通り、「吸入」は肝臓の解毒システムをバイパスするため、同じ化学物質であっても経口摂取とは比較にならないほど高い毒性を示し得る。このことは、現行の安全性データ(SDS)が、現実の吸入曝露リスクを評価する上で全く役に立たない可能性を強く示唆している。   

V. 社会的・行政的対応

本セクションでは、市民団体からの政策提言、国民生活センターの調査、そして政府(5省庁)による啓発活動という、香害問題に対する社会・行政の具体的な対応と、その対応を巡る限界や論争を分析する。

5.1 市民団体による政策提言

前述の通り、7つの市民団体が院内集会を開催し、4省庁に対策を申し入れるなど 、行政への働きかけを強めている。   

その要求内容は、単なる「禁止」という強硬なものではなく、現実的な二つのステップに基づいている 。   

  1. 柔軟剤・合成洗剤への「マイクロカプセルの配合を自粛するよう業界を指導すること」
  2. 「全成分情報を開示すること」

これらの要求は戦略的である。「自粛の指導」は、が言及している「洗い流しスクラブ製品中のマイクロプラスチックビーズ」において、業界が自主基準を設けて対応した前例を踏まえた、実現可能な解決策として提示されている。「全成分情報開示」は、の「1%未満表示不要」ルールという抜け穴を塞ぎ、消費者の「知る権利」と「回避する権利」を確保するための第一歩である。   

5.2 国民生活センター(NCAC)の調査と勧告

公的機関としては、国民生活センター(NCAC)がこの問題に早期から注目し、調査報告を公表している 。   

NCACが2019年12月から2020年3月にかけて実施したオンラインアンケート調査では、9,332件の回答が寄せられ、そのうち7,000人以上が柔軟剤の香りによる「香害(化学物質過敏症)」を経験していたことが明らかになった 。   

この調査結果は、香害が一部の特異な人々だけの問題ではなく、大規模な公衆衛生上の問題であることを示している。しかし、この深刻な調査データに対し、NCACが公表した「消費者へのアドバイス」は、以下のような内容に留まった 。   

  1. 自分には快適なにおいでも、不快に感じ、体調を崩す人もいることを認識する。
  2. 使用量の目安を参考に、過度な使用を避ける。
  3. 「香りの強さの目安」を参考に商品を選択する。

NCACの報告  は、深刻な内部矛盾を抱えている。調査データ(7,000人以上の被害者)は、これが大規模な「健康被害(Health Damage)」問題であることを示しているにも関わらず、NCACが導き出した「アドバイス」は、問題を「エチケット(Etiquette)」や「個人の使用量」(=自己責任)の問題に矮小化している。   

NCACは、「製品が正しく使われれば安全である」という前提に立っているように見える。しかし、(微量で反応するMCS)や(吸入毒性の懸念)が示すように、被害者側はその前提自体(=製品の固有の安全性)を疑っている。NCACは、自ら集めた「健康被害」のデータを直視せず、問題を「エチケット」の領域に押し戻すことで、事実上、現状の規制・業界のスタンスを追認する結果となっている。   

5.3 5省庁による啓発ポスターとその変遷

香害問題の社会的な認知度の高まりを受け、行政も対応に乗り出している。特筆すべきは、消費者庁、文部科学省、厚生労働省、経済産業省、環境省という、問題に関連する5省庁が共同で啓発ポスターを作成・配布している点である 。   

このポスターは、2023年7月11日付で改訂版が発表された 。この改訂において、文言に重要な変更が加えられた。   

  • 旧版: 「その香り、困っている人がいるかも?」(疑問形)
  • 新版: 「その香り、困っている人もいます」(断定形)

この「かも?」から「もいます」への一見些細な文言変更  は、行政が「被害の存在」を(仮説や可能性ではなく)事実として公的に認定したことを示す、重要な一歩である。これは、市民団体の継続的なロビーイングの成果であると評価できる 。   

5.4 啓発活動を巡る論争:「エチケット」対「健康被害」

しかし、市民団体「香害をなくす連絡会」は、この2023年改訂版ポスター  を一定評価しつつも、残された問題点を厳しく批判している 。この論争は、香害問題の「解釈権」を巡るイデオロギー闘争そのものである。   

論点1:「も」という助詞の解釈 市民団体は、「困っている人『も』います」という表現は、「大体の方は支障がないが、『困っている人』も(例外的な少数者として)『います』」という語感を与えると批判。「困っている人『が』います」と明確に述べるべきだと主張している 。   

この主張の根拠として、北條祥子氏らの研究によれば、化学物質過敏症の傾向を持つ人は全人口の6%(約720万人)に上る可能性があり、「例外的な少数者とは言えない」と反論している 。   

これに対し、省庁側は「香りを好む人もいるので中立を保った表現になった」と回答している 。   

論点2:問題の本質の定義 市民団体は、ポスターが示唆する「快適」か「困っている(不快)」かという「感覚」の問題ではなく、本質は「合成香料等の化学物質によって体調不良を引き起こす『健康被害』の問題」であると明確に指摘している 。   

この文言を巡る攻防  は、香害問題をどの「フレーム」で捉えるかという、根本的な対立を示している。   

  • 行政・業界のフレーム: 問題を「感覚(不快/快適)」、「エチケット」、「中立性(好む人もいる)」 の領域に留めようとする。このフレーム内での解決策は「個人の配慮」 となる。   
  • 被害者・支援者のフレーム: 問題を「毒性学(健康被害)」、「公衆衛生(6%の罹患率)」、「公害」 の領域に引き上げようとする。このフレーム内での解決策は「製品の規制」となる。   

行政が「中立」を口実に「も」という言葉に固執し、「健康被害」という言葉を意図的に避ける  のは、問題を「健康被害」と認定すれば、直ちに経済産業省(産業振興)と厚生労働省・環境省(健康・環境保護)の省益が対立し、業界(JSDA)からの強い反発を受けることが必至であるため、その政治的判断を回避していることを示している。   

VI. 業界の対応と残された課題

本セクションでは、香害の主要な原因とされる製品を製造・販売する業界団体(JSDA)の公式な見解と、市民団体から突きつけられた未解決の科学的・倫理的課題を整理する。

6.1 日本石鹸洗剤工業会(JSDA)の見解

香害問題の当事者である業界団体、日本石鹸洗剤工業会(JSDA)の対応は、「封じ込め」戦略と呼べるものである。

第一に、JSDAは問題を「健康被害」ではなく、「香りのエチケット」として啓発するキャンペーンを展開している 。これは、問題を「製品(メーカー)」の安全性から「使用者(消費者)」の責任へと転嫁する、明確なフレーム操作である。   

第二に、問題が公共空間に拡散する主要なメカニズムである「移香」について、市民団体から実験報告書が提出された  にも関わらず、「『移香』を認識していない」と公式に否認している 。   

第三に、MCSの「病態未解明」 という医学界の現状維持と、が指摘する「吸入毒性データ無し」という現状を盾に、規制導入や製品設計の変更といった抜本的な対応を回避している。   

6.2 市民団体とJSDA間の論争(未解決の問い)

市民団体がJSDAに送付した質問状  は、業界の安全設計における「暗黙の前提」を体系的に解体する、極めて重要な科学的・倫理的な問いを含んでいる。これらの問いは、本稿執筆時点において、業界によって未だ公に回答されていない。   

  1. 吸入曝露の認識: マイクロカプセルのエアロゾル化と吸入(登山中に約20m離れた人から飛来してメガネに付着したカプセルの写真  を提示)という現象を認識しているか?   
  2. 環境汚染(食品)の認識: 家庭菜園のハーブや庭の植物にマイクロカプセルが付着し、それを人間が摂取している状況を認識しているか?
  3. 吸入安全性試験の実施: 「初回通過代謝」の問題  を考慮し、経口摂取ではなく「吸入」による製品の安全性試験を実施しているか?   
  4. 複合曝露の安全性: 他社製品(例:A社の洗剤とB社の柔軟剤)との「組み合わせ」使用時の安全性を保証しているか?
  5. 蓄積性の安全性: 衣類へのマイクロカプセルの「蓄積」率と、その蓄積を前提とした安全性試験(パネルテスト)を行っているか?

これらの質問  は、業界の安全性評価が(暗黙のうちに)(1)製品は吸入されない、(2)製品は環境から再摂取されない、(3)経口毒性データで吸入毒性を代用できる、(4)製品は単独で使用される、(5)用量は1回分で蓄積しない、という5つの非現実的な前提に立っている可能性を暴き出している。   

これらは単なるクレームではなく、業界の安全設計思想そのものに対する、科学的かつ倫理的な「告発状」である。JSDAがこれらの質問に誠実に回答することは、本問題の解決に向けた第一歩となる。

6.3 香害問題における主要ステークホルダーの見解の相違

本報告書で分析したように、「香害」問題は、(見解の相違)や(認識ギャップ)が指摘するように、ステークホルダー間の「認識の断絶」そのものが本質である。この「断絶」の構造を以下に整理する。   

論点I. 市民団体・被害者II. 産業界 (JSDA)III. 行政 (5省庁)IV. 批判的学術界
問題の本質健康被害 、化学物質による公害 香りのエチケット 、マナーの問題困っている人がいる(不快)、中立を保つ 公害 、水俣病の教訓 
主な原因マイクロカプセル 、合成香料(明言せず)消費者の過度な使用(NCACのアドバイス  が示唆)柔軟仕上げ剤のにおい マイクロカプセル、合成化学物質 
主要メカニズム移香 、吸入曝露 、蓄積 「移香は認識していない」 (言及なし)吸入による初回通過代謝の回避 、微量物質への反応 
病態 (MCS)実在する病気 、全人口の6%に傾向 (言及なし)病名は登録 、しかし病態は未解明 認識ギャップが問題 
求める解決策マイクロカプセル自粛指導 、全成分開示 エチケットの啓発 啓発ポスター 、使用量目安の遵守 因果関係の捉え直し 、吸入毒性の評価 
規制上の懸念マイクロプラスチック 、法律違反の可能性 (言及なし)努力義務規定であり指導せず (言及なし)

6.4 総括と今後の展望

本調査報告が明らかにしたように、「香害」問題は、単なる「におい」の問題でも、「個人の感受性」の問題でもない。それは、以下の複数の危機が交錯する、極めて複雑な「社会技術的(Socio-Technical)公衆衛生問題」である。

(a) マイクロカプセルという化学物質の送達技術の革新  (b) 「吸入毒性」という未評価のリスク  (c) MCSという「病態未解明」な医学的領域  (d) 「エチケット」対「健康被害」という社会的なフレーム対立  (e) マイクロプラスチック汚染  と消費者製品規制の「狭間」という行政的課題   

この複雑な問題を解決するためには、ステークホルダーそれぞれに以下のような課題が残されている。

  1. 科学的課題: 産業界と規制当局は、「経口毒性」中心の安全評価から直ちに脱却し、が問う「吸入毒性」、特にマイクロカプセルの長期・蓄積・複合曝露に関する毒性学研究を実施し、そのデータを公開することが急務である。   
  2. 規制的課題: 行政(消費者庁)は、が指摘する「1%未満」の表示義務の抜け穴を塞ぎ、マイクロカプセルの使用の有無を含む「全成分開示」の義務化を検討する必要がある。また、環境省と経済産業省は、が指摘するマイクロプラスチック問題を直視し、「努力義務」という言い訳を排し、環境汚染物質としての規制に踏み込むべきである。   
  3. 社会的課題: が「水俣病」の教訓として問いかけたように、行政は科学的な「未解明」 を理由に対策を遅らせるのではなく、予防原則(precautionary principle)に基づき、被害者の「現実の苦痛」 と「科学的な懸念」 を真摯に受け止めるべきである。行政が「中立」 という名の不作為から脱し、「被害の最小化」という公衆衛生の本来の責務へと舵を切れるかどうかが、厳しく問われている。   

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